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群馬県は何回か来てますが、ここは来たくて来れなかった場所でした。
今回本当は草津温泉の帰りに寄るつもりだったのですが、渋滞で断念してしまっていました。
そう思うと高速が千円になって、めっちゃすごい遠出よりも、1、2時間くらいの遠出に役立つような気がします。富岡なら、高速道路沿いで来やすい場所だと思います。
富岡という町は、信州と上州の境目である碓氷峠の上州側です。ここで明治初期に生糸を作る工場が作られました。元々養蚕が盛んであったことと、石炭が近くで取れたことなどが理由だそうです。
富岡製糸場は、官営模範工場で、どちらかというと工場の技術者を養成する場所でした。ですので「ああ野麦峠」のような過酷な労働という感じではなかったようです。ボランティアの方もおっしゃってましたが、女工の多くは士族の娘で、決して身分の低い人ではありませんでした。
また、フランス式の工場だったので、日曜日は休み、8時間労働だったそうです
。
中に入ってみると、、、
きれいなレンガ造りで、明治時代の雰囲気が味わえます。
レンガの積み方はフランドル積みで、いかにもフランス式という感じです。レンガの焼き具合は、かなりばらけているように思いました。
ボランティアの方は「日本ではレンガを焼いたことがなかったからこうなった」とおっしゃっていましたが、僕個人の意見を言わせてもらえば、あれは時間がなかったのであのばらつきになったのではないかと思います。全くのカンですけど。
ちなみに、レンガは富岡の隣町甘楽の瓦職人が焼いたそうです。
煙突は、さすがにコンクリート作りで、当時のものではありませんが、場所はだいたい当時の場所と同じだそうです。錦絵や写真からでも想像できるところです。
あと、
工場内の建物の配置のことで、父親と話していたことがありました。
工場の核となる繰糸場と繭の倉庫はコの字型で中央にありますが、フランス人技師と、女工さんの宿舎などは、少し外側にあります。また、フランス人技師と女工さんの宿舎は、コの字型の建物群のちょうど真逆にあります。
こういったつくりは、現在でもアジアではよく見られるようです。住居スペースと労働スペースを完全に切り離すことで、メリハリをつける意味があるのです。そして、宿舎の距離を大きくとるというのは、いらぬ衝突を防ぐ意味もあったのではないでしょうか。明治初期の日本ですから、外国人に対する目は冷ややかだったと思います。
富岡製糸場は、昭和62年まで実際に操業されていました。
もちろん明治の時代には民間に払い下げられていましたので、模範工場ではありませんでしたが、平成の世になってもこのように管理されていたのは、すばらしいことだと思います。
しかし、観光地として、子どもたちの学習の場としては、まだまだ整備すべきところもたくさんあるように思いました。建物の見学も一部分だけですし、最近まで操業されていたせいか、敷地内にあらゆる時代のものが混在していて、素人目にはわかりにくいと思います。案内板やボランティアの充実など、見学しやすい整備が必要であると思います。
富岡製糸場自体の研究もどこまでなされているかわかりませんが、結構わからないことだらけのような気がします。学術的な研究ももっと進んでほしいと思います。
現在、世界遺産の暫定リストに入り、世界遺産の登録をめざしておられます。近代日本産業のスタート地点である富岡製糸場は、十分にその価値を秘めていると思いますので、たくさんの準備を頑張ってほしいと思います。
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京都寺子屋塾の塾長です。
大阪出身で、現在は上京区民です。
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