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先日のことですが、京都国立博物館に狩野永徳を観に行こうと思っていたのです。金曜日の朝ということもあり、まぁクルマで行っても大丈夫だろうと思っていました。
ところが、、、
10時の段階で駐車場は満車、入場も50分待ちということで、この日はあきらめました。。。
そこでこのまま帰るのもシャクだということで、ちょっと足を伸ばして光悦寺に行ってきたのです。僕もここへ来るのは久しぶりでした。大学から近かったので、学生時代は何度も行きましたが、今思えばやはり交通の便の悪いところです。
今年は暖かいせいで、京都の紅葉も遅れているようです。
でも、さすがに少し北に上がれば紅葉も観ることができました。
珍しく写メを載せておきます。。。(連れの希望により)
光悦寺は、その名の通り本阿弥光悦にゆかりのあるお寺です。
本阿弥光悦は、刀剣鑑定士の家に生まれ、書、絵画、陶芸、何でもこなす芸術家でした。中でも書は、独特な書風でとても有名です。僕は個人的に、俵屋宗達の下絵に書いた『鶴下絵三十六歌仙和歌巻』が圧巻だと思います。書がアートであることをとても感じさせてくれるものです。
こんな風に、光悦は自身が作品を作る一方、いろいろな芸術家たちのプロデュサーとして、今にその作品が残ります。
光悦は60歳を前にして、この鷹峰に徳川家康から所領を与えられ、このあたり一体に芸術村を築きました。光悦が鷹峰に来たこの頃、茶の湯の師匠である古田織部が切腹させられていることから、洛外追放との見方もありますが。。。
どちらにせよ、多方面の芸術に影響を与えました。特に琳派が大成する一つのきっかけを作ったといえます。尾形光琳は光悦の親戚でもあり、光琳の祖父は芸術村出身だったのです。もちろん上記の通り、宗達との共同制作は数も多いのです。
話しがそれましたが、、、
光悦寺は、そんなゆかりのあるお寺です。
そういえばもう一つ、こないだ「バガボンド」を読んでいたら、ちゃんと光悦も出てきました。武蔵と光悦は親交が厚く、吉岡一門との決闘の前にも光悦を訪ねたといわれています。マンガでは、その場に小次郎もいることになっていますが。。。
本来の目的である狩野永徳は、水曜日の午前中に行こうと思っています。
その様子はまた報告しますね。
ラストに近づき、永徳展の混雑ぶりは、ますます加速しているようですね。
朝からおでかけになるならば、開始1時間前からならばれんことをお勧めします。
ご無事にご覧になれますように。
混んでいることをわかっていながら、不覚でした。
開始一時間前ですね、というと、、、
8時半!!
夜の仕事である僕にとっては、かなりの難題ですが、これも永徳のため!頑張ってみたいと思います。
報告ができたら、TBさせていただきたいです♪
若冲の時と同じくらい、学生や同年代の人が多く、なんだか嬉しくなりました。
タイムスリップして、聚楽第を見たい!と思いながら帰ってきました。
ライトアップされた博物館の暖かなオレンジ色と、ろうそくの様な京都タワーの澄んだ白、細い三日月が美しかったです。
きっと赤が強いんだろうなぁ。
また行きたいところです。
やはり永徳展。
とても人気みたいですね。
そこらじゅうにポスターがはりまくりで。。。
あのへんには近づけませんf^_^;
TBおかえししますね☆
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京都寺子屋塾の塾長です。
大阪出身で、現在は上京区民です。
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