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今日は8月15日、終戦の日ですね。
62年前の今日、1945年8月15日正午に玉音放送(昭和天皇による戦争終結の宣言)がありました。周知のとおり、この放送は事前にレコードで録音されていたもので、前日にはすでに15日正午に日本国民はラジオを聴くように言われていたようです。
この放送を聴いた人、聴かなかった人、いろいろな人がいたと思います。
そういえば、先日の西日本新聞に、玉音放送当日放送直後に撮影された兵士たちの写真が載っていました。
海軍航空隊100人以上が写っている写真なのですが、珍しいことにほとんどの人が満面の笑顔なのです。背景から地元の「綿積神社」(わたつみじんじゃ)での撮影とされていますが、当時神社の面前で笑顔で写真を撮るというのが、あまり許されなかった時代だったと思います。
終戦の安心感からか、助かったという気持ちなのか、当事者にしかわかりません。しかし、やはり戦中戦後についてもっとクリアにわれわれは知るべきのだと思います。
明日にはご先祖さんがあの世に帰っていきますが、過去から学ぶべきことはもっとあると思います。
明日は、五山の送り火を見ようかと思います。。。
ちょうど中学生と高校生がテスト期間中で、毎日泣きそうに忙しい毎日を過ごしています。忙しい故に、ブログは書きたくなるものです。僕にとってブログはストレス解消になっていると思います。
こういう時は自分の好きなネタで!ということで幕末の話しです。
今月のはじめごろ、ついに僕がこの一年くらい買い集めていた「るろうに剣心」完全版が完結しました。そうです、あのマンガです。
歴史を大学で専門に勉強していた方は、こういったマンガなどの類は捨て置くことが多いようです。僕も「風光る」などは読んだことがありませんが「お~い龍馬」などはテレビ版も観ておりました。
「るろうに剣心」ですが、ご存じの方も多いですね。
ウィキペデイアの説明によると、、、
「明治維新のために不本意ながら人を斬り続け、「人斬り抜刀斎」として恐れられた剣客緋村剣心が、神谷薫との出会いやライバルたちとの戦いを通じて、新たな時代での生き方を模索していく」
とあります。。。
主人公の「人斬り抜刀斎」こと緋村剣心は、作者の言葉にもありますが、実在の人物「河上彦斎」(かわかみげんさい)をモチーフにしています。史実では佐久間象山を京都三条木屋町で一刀両断にしたことで有名ですが、意外とその「人斬り」としての姿はよく知られていません。彼は肥後藩(熊本県)の出身で、後に広沢真臣(長州藩出身の官僚的政治家)の暗殺の疑いをかけられて処刑されてしまいます。もちろん根も葉もないことですが。。。
話しの中では、京都の話題も出てきます。
幕末の京都は「天誅」の嵐が吹き荒れていました。当時の京都をあらわす記述はたくさんありますが、治安が悪いだの、楽しく暮らしてるだの、通り一辺倒では説明しきれません。でも、蛤御門の変や、鳥羽・伏見の戦争など、一般市民もいろいろなことを感じていたはずです。こういうマンガを通じて、京都の歴史について興味を持ってもらうことは良いことだと思います。
マンガであることを引いて考えても(幕末を舞台にした人間活劇といってしまえばそれまでですが)幕末の明るい部分暗い部分が、わりとシンプルに描かれています。また、生きるとか死ぬとか、、人生の過ちや償い、、万人の幸せと一人の幸せ、、などなど、遠くて身近な問題を取り上げているところも評価できます。
世の中のことを考えて、命をかけていた時代です。
今の若者に命をはれとはいいませんが、時に本気で何かをしなければならなくなった時に、自分をどう見つめて、社会をどう見つめていくのか。幕末の若者は、それぞれの立場で精一杯生きていました。どちらが正義で悪とか、どちらが正しくて間違っているのかとか、あるいは勝ち組とか負け組とか、そういうのではなく、誰もが精一杯生きていたのだと思います。それは今のわれわれも同じだと思います。
僕も自分が正しいと思う道を、全力で走っていくことしかできません。
現在、高松塚古墳の壁画は少しずつ剥ぎ取られていますが、今日はついにあの「女子群像」の部分が剥ぎ取られました。
高松塚古墳は、今から30年以上前に発見されました。しかし、ほとんど何も保存措置を行わず、さらにカビや亀裂が見つかってからも現在に至るまで数年に及び、このような有様になりました。非常に残念です。
30年以上前には、こういった遺跡を保存する技術はありましたし、文化庁にもそれを何とかする手だてはたくさんあったと思います。いまさら悔やんでも仕方ないですが、こういった歴史的な遺産をもっと大事に扱ってほしいと思います。
高松塚古墳のような第一級の国宝ですらこのような状態なので、その他は推して知るべしです。
前にも書いたかもしれないですが、僕は大学で、この高松塚古墳にも大きく関わった網干善教先生の授業を受けていました。網干先生は、
「古墳や遺跡は、そこにあるから意味がある」
とおっしゃっていました。長年考古学に携わってこられた先生らしい言葉だと思います。
古い考古学者は、古墳の調査について「死者への冒涜」だと言っていたそうです。古代の人々は、もちろん後世の人たちのために古墳を築いたのではありません。しかし、古代の人たちの気持ちを理解しようとする態度こそが、一番大事なような気がします。
壁画は全部で16箇所に解体されるそうです。もう取り返しのつかないことですが、これを教訓に二度とこんな悲劇がおこらないようにしてほしいものです。
今日日本史の授業をしていて、渡来人の話しになりました。
特に京都と縁のある秦氏については、生徒もわりと気になったようです。
秦氏について。。。
「日本書紀によると応神天皇14年に弓月君(ゆづきのきみ:新撰姓氏録では融通王)が朝鮮半島の百済から百二十県の人を率いて帰化し秦氏の基となったというが、加羅(伽耶)または新羅から来たのではないかとも考えられている(中略)ハタ(古くはハダ)という読みについては朝鮮語のパダ(海)によるとする説のほか、機織や、新羅の波旦という地名と結び付ける説もある。」出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
抜き出しても難しいですね。
要するに、弓月君という人が朝鮮半島から渡来人として日本にやってきました。後に帰化して「秦氏」を名乗ったといわれています。
京都では、葛野郡(太秦)と紀伊郡(深草)に土地を持っていたといわれています。とくに太秦は、その名の通り聖徳太子(太)と秦河勝(秦)の所領と縁が深いことが地名をみてもわかります。
僕が昔から気になっているのは「秦王国」です。
『隋書』に記載されているのですが、所在地やその内容に関しては不明です。実際秦氏との関わりもよくわかってないのではないでしょうか。聖徳太子と同時代に存在したようなので、『日本書紀』にその記述があったかどうかまでは知りませんが、僕は結構重大なものではないかとにらんでいます。
渡来人と天皇の関わりや、聖徳太子、大化の改新、壬申の乱など。。。
考え出すときりがないですが、とてもおもしろいです。来週の授業は渡来人と聖徳太子の話しをしようかなー。
たまにはきつい内容で、、、でも現実から目を背けたくありません。
先日の新聞を見て驚きました。文部科学省の教科書検定の結果です。高校日本史の教科書で、沖縄戦での「集団自決」について、軍の強制があるとの記述を修正するように求めたとのことでした。
実際「集団自決」が軍の強制であるとの記述をしていた出版社は、、
実教出版(日本史B二冊)
三省堂(日本史A、B)
清水書院(日本史B)
東京書籍(日本史A)
山川出版社(日本史A) の5社7冊です。
どれもこれもわりとメジャーな出版社です。関西の高校では、山川と実教で、9割以上を占めていると思います。これら実際生徒が使っている教科書では「集団自決」に関する記述が今まで書かれていました。これに対して、政府が削除修正を求めたということはかなりゆゆしきことだと思います。(山川だけは自主的に修正しましたが)
そもそも、沖縄戦の「集団自決」が軍によって本当に強制されたかどうなのかということですが、これはいうまでもありません。軍の強制以外の何ものでもありません。この判断に関しては現在大江健三郎氏が大阪地裁で係争中です。
しかし、すでにアメリカ合衆国の公文書館で、軍の強制であることを裏付ける資料が存在することを沖縄タイムス社が公表しています。この文書に関して裁判では「文書は座間味でも渡嘉敷でもない慶留間島のものだ」として訴訟そのものには反論しているものの、軍の強制による「集団自決」が沖縄であったことは半ば認めたことのように思えます。
個人的には、僕自身座間味も渡嘉敷も行きましたが、「集団自決」に関して軍の強制ではないと否定する人は誰もいないと思います。そもそも軍に手榴弾を「集団自決」をほのめかせつつ各家々に配布している時点で、すでに強制されているといってもいいように思います。手榴弾は軍の許可なしに、一般人に手渡されることはありませんから。
そして、何よりこの政府の考えや裁判自体が、現実に今沖縄で暮らしている人たちに非常に失礼なことだと思います。沖縄県民は、身内で沖縄戦に巻き込まれていない人はほとんどいないと言われています。そういった沖縄県民の心情を逆なでし、まるで「集団自決」が国に殉じて死を選んだかのように書かれていることを現場の先生方がどう指導されていくか、相当な判断を強いられると思います。
最近「集団自決」にせよ、それ以外の歴史的な「事実」に関して非常に「証拠」というものにこだわります。歴史では、こういった科学的「証拠」というものはやはり「書かれたもの」にある程度限定されてしまいます。いやむしろ書かれたものでも「証拠」になりえないものもあるので難しいところです。
歴史を研究する上で、科学的「証拠」を探すことはたしかに大事です。有識者によって明らかにされるべきことも確かです。しかし、その歴史を背負って日々生きている私たちにとって、もっと大事なことは今日であり明日であると思います。そのための歴史研究・歴史教育であることを忘れてほしくないです。
今日の最後の授業は高校生の古文でした。
今、新高2はひたすらに『伊勢物語』を読むということで古文に慣れてもらっています。
今日は伊勢の四段「西の対」の女の話しでした。
「むかし、東の五条に大后の宮おはしましける・・・」
という冒頭で、まぁありがちな冒頭ではあるんですけども、五条という地名に少しひっかかりました。生徒に単純な気持ちで「五条ってどのへんかわかる?」と聞いてみたのです。地下鉄の駅にもあるくらいですし、だいたいイメージできるかなぁと思ってたのですが、意外にも生徒の中には、五条がさっぱりわからないのではと思われる生徒もいました。だいたい四条よりかは南で、京都駅よりも北やろうくらいは予想してほしかったんですが、なかなか難しいようです。
そこで、少し平安京の話しから、京都市内の簡単な地名について話しをしていたのですが、これも意外にみんな知らないことが多いようなのです。まぁまだ高校生といえばそうでしょうが、まがいなりにも京都市内に住む高校生なので、もっとよく知っておいてほしいです。
五条の話しに戻って、僕はあやうく「五条楽園」の話しをしそうになりました。。。京都の方は御存知でしょうが、五条楽園というのは昔の赤腺、つまり遊郭のあったところです。いや、まだお茶屋さんは現役で存在しています。
もちろん僕は中にまでは入ったことがありませんが(本当ですよ)、今でも一人でいるとき前を通ると「お兄ちゃん、暇かー?」みたいな感じで声をかけられます。
実は以前、まだ今の塾をする前の話しですが、僕はこのすぐ近くにあるクリーニング屋さんを愛用していました。そのお店はたった数時間で驚くほどきれいに仕上げてくれるお店でした。聞くと、宮川町でお仕事している方々のお召し物をクリーニングしているとのことで、なるほど納得しました。
僕は大阪に住んでいる時も、わざわざクリーニングに京都のここのお店まで来ていたんです。そこで、いつもお茶屋さんの前を通るので、いつも声をかけられていました。僕はほとんど興味がないので、一度もお世話にならなかったですが、お話くらいだけでも聞いてみてもよかったかもしれないですね。あと、クリーニング屋さんの数軒隣には、有名な「組」の事務所もあり、慣れないと少し緊張するところです。
さすがに、高校生の女の子には少し話しにくいことだったんで、僕も言葉を飲み込みました。今では、五条楽園の近くに有名なカフェがあったり、市の施設などが近くにできたりと、少しずつ周りも変化しています。こういう話しは、良いとか悪いとか、裏とか表とかそういうのではないと思うので、もう少し学年が上がったら、ゆっくり話ししてみたいと思います。
今日、高校生と話しをしていて、斎藤一について聞かれました。新選組の三番隊組長の斎藤一です。彼については謎も多いんですが、明治まで生き残って御子孫の方もおられるので、明治以降の詳細はよくわかっています。
新選組時代の斎藤については、いろいろ言われていますが、明治以降各人の証言からみても、有名な沖田総司や永倉新八などと並ぶ剣の使い手であったことがわかります。
ただ、一般的な感覚として、近藤や土方、そして沖田との関係に、実はちょっとずれがあるように思いました。
それが年齢です。
壬申戸籍(明治四年)から見て、斎藤一が生まれたのは天保十五年(西暦1844年)だとわかります。元旦の一月一日に生まれたので「一」という名前になったとも言われています。
そうすると、明治元年(西暦1868年)には24歳であることがわかります。
この年(1868年)他の新選組隊士や維新志士などと比べてみると。。。
近藤勇 34歳 (しかし誕生日が来る前に処刑)
土方歳三 33歳 (翌年、五稜郭の戦いで戦死)
沖田総司 26歳 (しかし誕生日前日に病死)
木戸孝允 35歳
西郷隆盛 40歳
大久保利通 38歳
伊藤博文 27歳
板垣退助 31歳
その他、坂本龍馬はこの前年34歳の誕生日の日に暗殺されていて、この時一緒に殺された中岡慎太郎は29歳、同じ年に病死した高杉晋作は満28歳でした。
こう考えると、ドラマや漫画などに出てくる「斎藤一」というのは、少しイメージと違うような気がします。
今日、生徒と言っていたのですが、どうも沖田総司の兄貴分という役割が多いようです。しかし実際は沖田のほうが年上であることがわかります。沖田の年齢は諸説ありますが、せいぜい斎藤と同い年程度です。
あんまり夢を壊すとよくないですが、数字だけでみるとこういう歴史の側面も見えてくるのです。
しかし、幕末に活躍した人々は、みな若いです。
僕とそれほど変わらないか、ほとんど年下です。
この年で、国を動かすことを本気で考え、実行していったことには頭が下がります。幕府方と新政府方、立場は違えど命をかけて国を思う気持ちだけは(変な意味での愛国心ではなく)、双方受け継いでいきたいですね。
ノーベル物理学賞ををとった二人は、この京都の地でで学業に励んでいました。二人とも、うちの塾の裏にある、洛北高校(旧制京都一中)から三高、京大というコースを歩んでいます。
今日、京大でその記念講演会が行われたそうです。
今年は「京大湯川・朝永奨励賞」というものを京大から新しく作るようです。京大は、いや京都は今年、湯川・朝永二人の一年になるかもしれませんね。
湯川秀樹といえば、ラッセル=アインシュタイン宣言や、七人委員会を思い出します。中間子の予言でノーベル賞を受賞していますが、核の恐ろしさをたくさんの人にアピールしたことでもその功績ははかりしれません。あと、湯川の弟である小川環樹が作った漢字の辞書「漢字源」を、僕は愛用していますが。。。関係ないですね。。。
今日は、ちょうどラジオでも湯川秀樹の話しをしていました。。。
湯川が子どもの頃、ジグソーパズルのようなものを一人で遊んでいると、何度もやりすぎて飽きてしまい、どうしたらもっとおもしろくなるだろうかと考えていました。そこで全て裏向けにして真っ白の状態でパズルをしたそうなんですが、簡単に解けてしまったそうです。たしかに、これって結構難しいと思います。
うちの塾でもパズルはあまりやっていなかったので、ちょっと今度やってみようかと思いました。
そういえば湯川は出町の京都市立京極小学校出身です。
今でもこの小学校の校長室には、肖像画が貼ってあるとあるというのは本当でしょうか。
また、湯川は下鴨神社にある、糺の森を散策するのが好きだったらしいです。
僕も今度の休みには、糺の森でも歩いてみようかな。
明日はいよいよ洛北高校付属中学校も合格発表です。
第二、第三の湯川秀樹、朝永振一郎に期待しています。
僕は高校生の時から、藤原公任という人が気になっていました。
公任は平安時代の歌人で、摂関政治で有名な藤原道長と同時代の人です。その公任が編纂した『和漢朗詠集』は、内容の完成度から、後に貴族の教科書として使われていました。「君が代」の出典もこの『和漢朗詠集』です。僕は今でも、古典の勉強で読むことがあります。
そして、公任(四条大納言)は「三舟の才」の話しもあるように、漢詩・和歌・管弦など多方面での才能を発揮していました。
『大鏡』には
「いかでかかからむ。うらやましくもあるかな。
わが子どもの、影さえも踏むべくもあらぬこそ、口惜しけれ」
(どうしてこんなに何でもできるのだろうか。うらやましいことだなぁ。私の子どもたちが影さえも踏むことができないのは、残念なことだ。)
これは、藤原道長の父兼家の言葉です。出典が出典だけにあくまでお話しですが、時の権力者にこうまで言わせたのは本物だと思います。
話しがそれましたが、、、
藤原公任の邸宅跡は現在確証のある場所は断定できていませんでした。
ただ室町時代にできた『拾芥抄』に、ある程度の場所が書かれています。しかし信憑性がやや薄いところが難点です。
今回発掘された四条新町の角は、他の書物にも出てきている場所であり、年代的にも合致しています。池の洲浜跡も今回確認されたとのことで、ほぼ特定できたといって良いのではないでしょうか。
最後に百人一首にある公任(四条大納言)の和歌を書いてみました。
「滝の音は 絶えて久しく なりぬれど 名こそ流れて なほ聞えけれ 」
(滝の音は途絶えてから長い年月がたつけれど、その名声は今に流れ伝わって、今でも人々の聞こえがあるのだ。)
藤原公任の和歌は飽きないです。。。
最近、なぜかかわいいものに惹かれます。
一人暮らしがたたっているような気もしますが、よくわかりません。
画像は「国宝・彦根城築城400年祭」キャラクター、ひこにゃんです。
なんていうか、その、、、かわいすぎです!!
僕はあまりキャラクターものとかは興味ないほうですが、一目惚れしました。
見た目そのものは、白い猫が赤い兜をかぶっているだけというシンプルなものですが、なぜか惹かれるものがあります。
そもそも、猫と赤い兜というのもちゃんといわれがあります。
彦根藩主に井伊直孝という人がいました。
大阪夏の陣の先鋒で、数々の武功のある人物です。
また、初代大老(当時は元老)になったことでも有名です。
その直孝が江戸で鷹狩の帰りに出かけた際、猫が手招きするので、あるお寺に立ち寄ることになりました。するとひどい雷雨になり、難を逃れたとか。ちなみにこのお寺、豪徳寺というそうですが、井伊家の菩提寺だそうです。幕末の井伊直弼もこのお寺にお墓があります。
あと、赤い兜はご存知「井伊の赤備え」です。
本能寺の変の後、武田家の旧領を平定したのが徳川家康でした。
そのときに、武田家の家臣を組み入れたのが、初代井伊直政だったのです。赤備えは元々武田家の家臣が身につけていたものでした。特に山縣昌景が有名でしょうか。来年の大河ドラマにも期待です。
そんな彦根ですが、僕は小学校の修学旅行が彦根城でした。
楽しかったんですけど、何だかすぐに着いてしまって、修学旅行という気がしませんでした。うちの小学校で彦根に行ったのは僕らの代だけです。なんでそうなったかは未だ謎です。。。
でもその時から彦根城にはとても興味がありました。そしてひこにゃんです。。。
イベントは来年から本格的に始まるようですね。
僕もできればいろいろなイベントに参加してみたいです。
もちろん本物の!?ひこにゃんにも会いたいですね。
今日は久々に丸一日オフで、京都市歴史資料館に行ってきました。場所は、寺町通を丸太町上がったところにあります。
テーマ展は「京のかたちV-幕末の京都-」です。
中に入ると、いつも通り誰もいなくてゆっくりできました。主な展示物は、、
『若山要助日記』 東塩小路村商人の日記
『京都武鑑』 京都の役職表
『中岡慎太郎金子借用証文』 中岡が大政奉還の三日前に淡海かい堂に送った書状
鳥羽伏見の戦いの時の砲弾 などなど一級品ばかりでした。
正直「京の~」は五回目ですが、今日が一番よかったです。これらを無料で観られるなんて、かなりお得です。 たしかに史料は全般的にマニアックですが、京都に興味がある方は楽しめると思います。
書き物以外にも、京都の地図もたくさんありますし(表現上公開しにくい地図や禁門の変の被災地図)、かわら版などもあります。ワンフロアにずらっと並んでいるので、時間としては短時間で観られると思います。
今日はそのあとCD買って、ケーキ食べて、本屋に行って、お茶しながら読書して、そして今お酒飲みながらこれを書いてます。
しっかり充電できたんで、今週いや年末まで頑張れそうです。
今日は漢字の日で、恒例の「今年の漢字」が発表されました。
1位「命」・・・秋篠宮の男子誕生、自殺や虐待、たしかに考えさせられました。
2位「悠」・・・これまた宮さんのとこですね。ゆずかとも思いましたが。
3位「生」・・・1位同様、考えることが多いです。
4位「核」・・・北朝鮮がらみですね。願わくば日本は核を持たずにいたいです。
5位「殺」・・・自殺や虐待、身近な人が「殺されて」いく話しは聞くに堪えません。
6位以下は書きませんでしたが、スポーツの話しなどだったと思います。そういえば今年は冬のオリンピックもありましたし、サッカーワールドカップもあったんです。野球も世界一になりましたしね。
ちなみに、、、
昨年の漢字は、、、
10 | 2024/11 | 12 |
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | |||||
3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 |
10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 |
17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 |
24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 |
京都寺子屋塾の塾長です。
大阪出身で、現在は上京区民です。
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