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京都の話しなど、他愛もないことを書きます。コメントなど残してくれたらうれしいです。
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変な日本語ですね。。


将軍塚といえばやっぱり夜景です。

バスや地下鉄では行けないところなので、友達にクルマで連れていってもらいま
した。

ただ、
将軍塚の夜景自体は何度も見ていますので、昨日は将軍塚にある青蓮院の飛び地
大日堂に行ってきました。


昨日は本当に寒かったのですが、夜間拝観が昨日までということで頑張って行っ
てきました。
紅葉がほとんど散っていましたが、逆に紅葉のじゅうたんになっていて、とても
綺麗でした。

 

青蓮院の飛び地である、この大日堂には「将軍塚」があります。
桓武天皇が将軍像を埋めたとされるところですね。
将軍塚まで来て、将軍塚見てない方は多いのではないでしょうか。

ちょっと不便ですが一見の価値ありだと思います。
 

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 二条城の中で「行幸御殿」の発掘調査が行われています。
 その現地説明会が行われたので、行ってまいりました。

 「行幸御殿」は、後水尾天皇の二条城行幸(1626)の際に造られた建物でだとされています。ただ、遺跡は部分的に江戸時代の終わりくらいまでの様子がわかる状態にもなっていました。

 中には、文政の大地震(1830)に倒れたとされる石鳥居の台石もありました。
 記録によると鳥居は一つではなかったような気がしますが、石でできていたのは一つでしたでしょうか。。。。僕も記憶があいまいです。。でも、石鳥居の残骸のようなものも端っこのほうにあって、今後の調査が待たれます。

 
 それから、金箔が貼られている瓦も出てきていました。少し触らせてもらいましたが、漆を塗った形跡もあって、伏見城の瓦だというのもうなづけます。

 

 後水尾天皇が二条城に行幸したのは5日間です。
 そのために造ったものですが、後水尾天皇という方は、なかなか波乱万丈の人物です。

 後水尾天皇は、江戸幕府から禁中並公家諸法度を出された時の天皇で、後に徳川秀忠の子和子を中宮として迎えています。この頃に朝廷の力は徐々に幕府に奪われていくのです。その結果、紫衣事件なども起こり、後水尾天皇は明正天皇に譲位します。


 また、後水尾天皇は、前の天皇である後陽成天皇とも仲が悪かったらしく、評判の悪かった陽成天皇になぞらえて「後陽成」の名をおくっています。また、自らは清和天皇になぞらえて「後水尾」と名乗るわけなのです。

 

 江戸時代の始めごろは、二条城も政治的にとても重要な場所でしたが、3代将軍家光以降それほど歴史の表舞台には出てきません。次に脚光をあびるのが、幕末の大政奉還の時です。


 この現地説明会の時に、偶然知ってる方にお会いして少しお話しさせていただきました。その時に一致した意見がありました。二条城は、地下鉄や阪急、しかも堀川通と、非常に交通の便の良いところにあるのですが、なかなか来ようと思って来るところではありません。
 でも、いざ来てみると、見るものはたくさんあるのです。

 やっぱりベタな観光地でも、もう一度見直す必要があるなぁと思いました。
 

 更新が滞っています。。。
 書きたいことがいっぱいあるのですが、寒くなると動きが鈍くなるのでしょうか。
 十日ほど前のことですが、備忘録として書いておきたいです。
 


 これは伏見区の選挙管理委員会主催で「伏見区政治・文化セミナー」として行われている講演会です。京都市のHPには、

「歴史と文化の香りのただようまち 伏見の素晴らしさの再発見」

 とあります。

 でも本当にそう思います。
 伏見は、日本の歴史で人気がある、戦国期と幕末期の両方で重要な場所です。
 そういう場所は日本国内でもなかなかありません。

 

 講演会は、大河ドラマ「天地人」の直江兼続や上杉景勝を中心に、伏見や京都との関わりというお話しでした。
 洛中の上杉景勝や直江兼続の屋敷には、石碑や案内板が新しく建っています。
 でも、伏見の上屋敷の場所が特定できていないということでした。

 僕は個人的に、板倉周防の屋敷付近ではないかと思ってますが。。。
 
 
 最後には、来年の大河ドラマ「龍馬伝」と再来年のドラマも伏見にとても縁があるということでした。坂本龍馬が出て、伏見ははずせないとは思います。


 
 あと、一つ思ったことがありました。

 僕はこの日ちょっと遅刻しそうになって、後ろのほうで座ってました。
 会場のキャパは200人だったそうですが、最後は立ち見している人も多かったです。
 また、僕が座っていたあたりは、野菜を売りに来ていたおばちゃんらがいました。
 おばちゃんらは、普段あまり歴史に興味がある感じではなかったのですが、知っている地名や、大河ドラマの中での話しなど、身近なところでは大きくうなづいておられました。

 みなさん、おらが町のことは知りたくなるものです。
「いっつも通ってるとこやのになぁ」っておっしゃっていたおばちゃんがいましたが、本当に伏見はそういう場所だと思います。

 
 歴史の触れる機会というのは、身近なところにあると思いました。
 京都にいたら当たり前なんですけどね。。。

 



 すでに京都市内は観光客で混み始めています。
 でも今年の目玉の一つになるのではないでしょうか。
 
 青蓮院は門跡寺院の一つで、江戸時代に御所が火災に見舞われた時には仮御所
にもなっていたところです。
 
 この青蓮院には青不動と呼ばれる秘宝があります。
今まで一般公開されたことがほとんどなく、青蓮院で公開されるのは初めてのようです。
 
 僕は、どんな感じで公開されるかがとても気になって行ってみました。
単なる文化財ではなく、みなの尊敬を集めるような仏様を見たかったのです。
 

 行ってみると、とても多くの人でごった返していました。
 お庭などは簡単に観て、早速青不動のところに行きました。
 やはりここは多くの人。。。
 でも、ゆっくり拝めました。
 やはり、HPなどに書かれているように、
「国宝としての青不動」というよりは
「信仰としての青不動」という力のある絵画でした。

 

 話しは少し変わりますが、
 先日、友達と、
仏教美術は「信仰の対象」か「単なる美術品」か
 という話しをしていました。
よく話し合われる内容だとは思いますが、やはりこれは論議しなければいけないものだと思います。
 また、僕の友達いわく、阿修羅展が東京で大盛況だったことをうけて、あれは人ごみの博物館で見るべきか、静かなお寺の中で見るべきかということもだそうです。これは少しずれた話しでもありますが、案外こういったことを普段考える人は少ないようです。
 
 僕個人の意見としては、、、
 
 どっちでもいい

 と思います。

 やはり、見る人によって、場合によっては同じ人でも見るタイミングによって、見方が大きく違ってくるので、見る人次第かなと思います。どちらか一方の視点でのみ見るということもないと思いますし。
 いろいろな見方で見ることが一番楽しめる方法ではないでしょうか。

そもそも、
どちらか一方の視点しかないということ自体が、最もナンセンスなのかもしれません。

 

 秋の京都は人がいっぱいです。
 
 みなさんそれぞれの楽しみ方を見つけてくださいね。

 新選組の屯所は壬生が有名です。しかし大政奉還や坂本龍馬が殺された時、新選組は、壬生ではなく堀川七条を下がったところ、いわゆる不動堂村あたりに屋敷があったといわれています。
 今日見てきた石碑ですが、場所は西洞院塩小路の南西角でとてもわかりやすい場所にあります。ハトヤ瑞鳳閣というホテルがある場所です。つい先日建てられた石碑なので、あまりご存知のない方もいると思います。

 それどころか、

 「不動堂村屯所跡」といえば、リーガロイヤルやないのん?

 とおっしゃる方も多いと思います。

 たしかに、リーガロイヤルホテルの前にも碑が建っています。
 ここには近藤勇の歌碑と簡単な案内板があります。

 しかし、僕もここは個人的には少し場所がずれるのではないかと思っていました。
堀川七条下がったところではありますが、堀川通よりも東側ではないかと思います。
 ただ「不動堂村屯所跡」はあまり場所がよくわかっていないようなので難しいところです。そもそも、大きな屋敷だったようなので、広い範囲で考えたほうがよいのかもしれません。

 

 どちらにせよ、
 僕はもう一つ違和感を感じていたことがありました。


 リーガロイヤルにしても、ハトヤ瑞鳳閣にしても、


 あんまり宣伝していないような気がします。。。


 HPをみると、どちらも碑について書いてありません(ハトヤ瑞鳳閣は最近なので仕方ないでしょうが)。せっかくなので、もう少し宣伝してみても良いのではと思います。
 このあたりは、油小路の変や天満屋事件の場所も近いですし、新選組が好きな人にとっては結構歩ける場所だと思うのです。遠方から来られる観光客の方が、新選組にゆかりのある場所に泊まって、近くを散策するというのができる場所だと思います。

 
 来年は大河ドラマも幕末ですし、京都はチャンスですね。

 先日やっと行ってきました。
 旧池田屋跡に立つ、海鮮茶屋 池田屋 はなの舞です。

 

 単純な感想としては、、、

 


 普通の居酒屋やん!!

 

 
 って感じです。


 たしかに、大階段があったり、だんだら羽織着てたりはありますが、
 一貫性がないので、思ったよりも普通やったという感じです。

 新選組でいくなら、もっとメニューも凝ってほしかったですし、
 なんか、そういうイベントでもやったらええんやないかなと思います。

 
 以前、壬生の最寄り駅、阪急大宮駅すぐ近くの「養老の瀧」が、
 新選組仕様になっていたことがありました。
そのときは「勇サラダ」とか「沖田総司からあげ」とかあったように思います。むちゃなメニューやとは思いましたが、それだけでもちょっと注文してみようかなーって思います。今はもう普通の養老の瀧に戻っていると思いますが。。。

 まぁ、まだ新しいお店なので、これからあるかもしれないですね。
 期待してます☆

 

 それと、誰かもおっしゃっておられましたが、、、

 池田屋は元々長州や土佐の浪士がいた場所なので、
 そこに新選組の名前が残ることは、原爆ドームにアメリカの旗が立っているようなもののようなものだと思います(ちょっと言いすぎ?)。踏み込んだ側ですからね。

 あと、もう一つ、

 コースターなどに書かれている絵などの中に、
 長州毛利家の家紋「一文字に三ツ星」があります。
新選組に討ち取られた側と、だんだら羽織を一緒に扱われると、少し気分を害する人もいるかもしれません。まぁ、こうやって書いていること自体気分を害する方もいらっしゃるかもしれないですが、それはご了承ください。。。


 深く考えなければたいしたことではないのですが、

 やっぱりせっかくの良い場所なのですから、
 
 多くの人に池田屋のことを伝えていってほしいと思います。

 

 あ、そうそう、

 ホットペッパーも使えるので、また行きますね。。

 久々に行ってきました。
 そして、久々にいいものに出会えた気がします。

 阪急桂駅の南西に、鎌倉期からの土豪・革嶋氏の建物跡が見つかりました。
 新聞などにも載っていましたが、江戸期に作られた絵図と合致する部分がとて
も多く、堀の跡もくっきりと出てきていました。


 革嶋氏というのは、中世にはこの地の荘官でした。
 その後地頭職を得て、この地の領主として成長していきます。
 戦国時代には細川藤孝や明智光秀に仕えていました。本能寺の変の時も光秀に仕えていたので、一時領地を没収されていたようですが、後に戻ってきました。

 

 現地は、絵図に描かれている堀の南東角から東側の一部分です。
 堀は水堀で、幅5メートル近く、深さも2メートルは超えている大規模な堀だったことがわかりました。絵図に描かれていない堀(室町後期にすでになかったか)も見つかり、これからの研究が待たれるところです。また、土塁の跡は削平されていて、詳しくはわからないようです。
 


 しかし、一土豪がこれほどまでの堀や土塁を築いていたことは驚きです。
 この場所は、山陰街道がすぐ近くを通っていて、都の守りとしては要所であったと思います。中世以降、為政者に翻弄されながらも、自分たちの地位を築いてきた革嶋氏や地域の人々の知恵が隠されているのではないでしょうか。


 今回の調査では、
 これら以外に、竪穴住居の跡(弥生後期か)も見つかっています。
 この近くでは、すでに竪穴住居の跡はいくつか見つかっており、元々人々が住みやすい地域であったのかもしれません。現在住んでおられる地元の方は、どう思っておられるのでしょうか。


 この日の現地説明会は、かなり多くの人が来られていたと思います。
 特に地元の方が多かったようにも思います。

 歴史を知ることと、残していくことは、
 地元に住んでいる人々にとって、とても大きな意味があると思いました。


 昨日は6月30日、今年もちょうど半分が終わり、暑気払いの意味も込めて水無月を買ってきました。

 毎年ふたばで買っていましたが、昨日は朝から用事が立て込んでいたので、職場の近所の美玉屋さんに行きました。甘めな気がしましたが、僕はこれもまた好きです。

 講師の先生と食べましたが、夏がやってくるのか、梅雨がやってきたのか、よくわからないお天気ですね。

 僕の実家のほうにも、祓の連絡が神社からありました。
 茅の輪くぐりなどのお知らせですね。
 うちの実家は大阪府ですが、京都にもかなり近いところなので、文化的にも京都と大阪の両方が混ざっているように思います。

 

 今日7月1日は、祇園祭の吉符入りですし、明日はくじ取式です。
 京都の夏が本格的に動き出していますね。

 僕は何年振りでしょうか。
 実家から近いので、いつでも行けると思っていたら、なかなか行けないものです。

 大山崎山荘ですが、やっぱり学生の時と、少し「大人」になった今とでは印象がまるで違います。昔は、建物や美術品の美しさに目がいきましたが、今はもう少し全体的なもの、建物と庭との調和とか、山崎というロケーションとか、そういう違った見方で楽しめました。

 今なら、季節的に過ごしやすい時期なので、のんびり楽しむことができます。

 行きは、阪急の大山崎から歩いてJRの山崎駅へ
 山崎駅からは送迎バスに乗りました。

 GW中だったので、お客さんが多かったら歩きたかったのですが、若い人も乗っていたので、遠慮せずに乗ってしまいました。
 僕は以前も来たことがあったので、距離的には想像できましたが、
 坂はみなさん苦手そうですね。


 山荘の中身はいうことありません。
 さすが昭和の貴族といったところでしょうが、佇まいはのんびりしていて、とても贅沢です、やはり雰囲気がよいです。


 大山崎山荘は、加賀正太郎が自ら設計した建物です。
 山崎といえば、現在はサントリーというイメージですが、サントリーから独立?分裂?した「ニッカ」の設立に支援したのが、加賀正太郎でした。その縁もあるのでしょうか。現在はアサヒビールが所有しています。


 
 大河ドラマでもちょうど昨日が本能寺の変でした。
 山崎の戦いは、うやむやにされましたが、羽柴秀吉と明智光秀が戦ったのも、この山崎の地です。正確には少しずれるようですが、秀吉軍がこの辺りを通ったことは確かなようです。
 

 大山崎は名所旧跡が多いところです。
 時間があれば、もっとゆっくり回ってみたいですね。

 結構前の話になりますが、京都御苑の中にある中山邸に行ってきました。

 今まで非公開だったのですが、一日だけの、いや3時間だけの公開でした。電話で問い合わせてみると、源氏物語千年紀の記念で歴史散策のイベントをNPO法人の団体と御苑とで行うとのことでした。その一環として、今回の公開となったようです。

 僕は「歴史散策」のほうはご遠慮させていただきましたが、中山邸のほうだけ拝見しました。時間はわりと早めに行きましたが、やはり大勢の人だかりでした。

 中山家というのは、藤原北家の流れをくむ公家で、幕末の中山忠能が有名(?)です。また、天誅組の変の中山忠光は忠能の子です。忠光は、吉村寅太郎などと一緒に大和五条の代官所を襲いますが、のちに長州に逃れ暗殺されてしまいます。
 吉村寅太郎は、この天誅組の変の際、中山忠光をこの中山邸に迎えに来たようです。

 そして、中山家といえば、今回の一般公開の目玉にもなっていたのが「祐井」です。祐井という名前は、この井戸の水を産湯に使ったとされる明治天皇のお名前「祐宮」からつけられたとされています。明治天皇の実母慶子は、中山忠能の子で明治天皇はこの屋敷付近で産まれたとされています。井戸の真偽のほどはともかく、井戸のは現在涸れていて使えないようです。


 今年は、篤姫で幕末が少し注目されました。
 京都における篤姫ゆかりの場所も盛況だったようです。
来年の大河ドラマも、あと2週間ほどで始まりますが、来年もまたゆかりの場所が注目されるといいですね。京都市内にもたくさんあると思いますし、いろいろと行こうと思います。

 毎年11月に行われている秋の一般公開ですね。

 この時期にいつも思いますが、、、


「御所」と「御苑」。。。


 どっちでもええやんー って思いますが、ある京都の人に聞くと、それは違うっておっしゃいます。では、何が違うのでしょうか。
 普段、私たちが歩いている、あの砂利道のところ、正確にはあそこが「御苑」です。丸太町から今出川、寺町から烏丸の間は、「御苑」になるのです。
 「御所」というのは、大宮御所と仙洞御所のことをいうようです。
 しかし、大宮御所にしても、宮内庁のHPを見ると京都御所と書かれています。このあたりの名称について僕は詳しく知りませんが、結構大事な問題のような気がします。


 「御所」の一般公開、いえば京都御所・大宮御所の一般公開は、今日から始まりました。予約もしなくていいですし、不審物さえ持っていなければ、誰でも入ることができます。
 今の御所は、だいたい150年前に作られたものなので、実は意外と新しいものです。でも、天皇さんがそこにいたことを思えば、時の問題ではないかもしれません。


 そういや、閑院宮邸は常に公開されていますが、一般の人はどれくらい行っておられるのでしょうか。僕は最低でも月2、3回くらいは足を運んでいます。
 もし、御所の一般公開に来られる方は、こちらも一緒に御覧になるといいと思います。御苑の中ですし、地下鉄丸太町駅から、すぐ近くなので、アクセスも便利です。

 
 御所の一般公開のほうは、15日午前10時と11時に雅楽、16日午前10時と11時に蹴鞠が披露されるそうです。
 あと、時間は9時から15時半までなので、時間に気をつけてくださいね。


 そそ、最後に、、、

 今日友達に「御所」と「御苑」の違いはー?って聞いたら、

 管轄の違いやろ、、宮内庁と環境省の

 って言われました。。。味気ないなぁ。。。

 少し前の話ですが、御所の西、烏丸丸太町からすぐのところにある有栖川宮家の旧邸に行ってきました。
 いや、本当の目的はここではなく、平安女学院高校でした。
 もちろん仕事の用事があって行ったのですが、ついでに見せていただいたわけです。

 この建物は、元々有栖川家の邸宅であったものを、今の場所に移築して、明治時代に京都地裁の所長宿舎として使われていました。所長宿舎としては、昨年まで使用されていました。それをつい最近平安女学院が手に入れられたのです。


 さて、中の様子ですが、、
 
 建物は、書院造で、中庭を中心に三つの棟で構成されています。
 玄関と、住居用スペース、そして客間です。客間のスペースには、上段の間も作られており、控える板間は能舞台とも言われています。
 素人の僕が見てもわかるくらい、柱や梁はとても良い材木で、最高級の仕事をしているように思います。

 門はといいますと、平唐門で唐破風の部分はとてもきれいなカーブを描いています。これは有栖川旧邸のものではなく、大正時代に三井家が新築したものを、昭和に入ってから移築したもののようです。この門は、烏丸通に面しているので、外からよく見えます。

 門から入って北側には、大きなしだれ桜があります。
 これは、秀吉の醍醐の花見の孫木であるといわれています。接ぎ木などではなく、本当の孫木であるともいわれています。
 また、この木を醍醐から運ぶように進言したのは、堂本印象であるといわれています。

 また、南側の通り沿い(下立売通)には、長屋門がありますが、これはいつ建てられたかまだわからないそうです。おそらく江戸末期以降だと思いますが。


 有栖川旧邸は、現在一般公開していませんが、今後一部改修・補強工事を行って使用するそうです。平安女学院としては、市民講座を開いたり、お茶会などもしたいとおっしゃっていました。そういや、平安女学院の理事長山岡先生は、月刊京都の白川書院の社長でしたね。

 
 外から眺めるだけの文化財ではなく、今を生きている私たちのために、もっと有効利用できると嬉しいですね。

 ずっと見たかったんですが、夏休みが一段落した先日やっと行ってきました。京都国立博物館の常展のフロアです。

 僕は静かに観たかったので、閉館近くに行ったのですが、意外にもたくさんの人が観にきていました。
 龍馬ファンの多さに改めてびっくりします。

 
 内容は、かなり充実しています。
 坂本龍馬が実際に使っていたといわれている刀、三徳、姉や姪に宛てた書簡などです。その中でも最も人が多かったのは、暗殺された部屋に置かれていた、屏風と掛け軸です。ご存じの方も多いでしょうが、どちらも血染めのものです。
 少し生々しいですが、血しぶきをあげた情景が思い浮かぶほど、くっきり残っています。


 でも、、、

 実はこれらは3年前くらいに、ここ京都国立博物館で特別展が行われた時に観ることができました。なので、初めてのものはほとんどなかったんですが、前よりも間近で観ることができたので、今回は文字まできっちり見ることができました。

 
 聞くところによると、再来年の大河ドラマは坂本龍馬になるようです。少し違った視点で構成されるようですが、どんなものになるかとても楽しみです。

  海の日は本当に暑かったです。
 うちの生徒でも本当に海に行って、真っ黒に焼けてきた子がいました。ちょっとうらやましいですね。

 でも、僕は完全にインドア派なので、こんな暑いからこそ涼しい美術館に行ってきました。
 先日から何度も行くチャンスはあったんですが、やっとのことで行けた感じです。

 
 細見美術館も開館10周年だそうです。
 もうそんなにって思う反面、まだって感じもします。

 何度も見たものもありましたが、初めてのものも多く、とても新鮮が気がしました。

 何度も見ているものでいえば「春日神鹿御正体」などは、改めてみていろいろ発見がありました。葉っぱの虫食いや、神鹿の飾りなど、細部まで手抜きがありません(失礼かな)。第一回帝国博覧会(上野)で、名古屋城のしゃちほこの隣に並べられていたといわれています。
 あと、ちょうど今授業で神仏習合について話をしています。正直僕は神仏習合については、教科書レベルの知識ですが、こうやってびっくりするようなものに出会うと、何かうずうずしてきます。


 木製の狛犬は、平安期のものと鎌倉期のものが並べて展示されていました。時代によって違うものだなぁって感心していましたが、平安期のものも何かまだアジアンチックな匂いがしてよかったです。もちろん、どちらも迫力があって、ちょっとユーモラスで、見ごたえがありました。


 何だかとてもリフレッシュされました。
 心の中の垢が拭えるような気分でした。

 この日は、楽しい飲み会もありましたし、
 夏期講習を楽しく乗り越えられるような気がしています。

 今日は宵山でしたね。

 僕はまだ職場でこうやってPCを打っています(いや仕事もしています)。

 今年は平日だったので、最初から諦めていました。
でも、浴衣で歩いている人をみると、ちょっとうらやましくもあります。特に女性の浴衣は、色っぽくて男としては目の保養にもなります。

 そういえば、下京中学校で浴衣登校なるものがあったそうです。
ここは統廃合によって、5つの中学校が一つになった新しい中学校ですが、取り組みなども目新しいものがあります。
 場所も五条烏丸付近にあるということで、特に祇園祭には縁があるようです。


 HPをみたところ、総合学習の時間に、祇園祭について調べたり、浴衣登校の一環として、着付け教室もされたようです。
 ほかにも、山や鉾の曳き初めに参加したり、白楽天山の胴掛けを製作していたそうです。この胴掛けは、昨日と今日だけ随行車に実際掛けてあるそうです。


 京都は、本当に伝統行事がたくさんあるので、地域だけでなくこうやって学校も積極的に参加できるように頑張って欲しいです。
 もともと京都の学校は、地域の中から生まれたものなのですから、地域のことを積極的に進めていくことは自然のことなのかもしれません。


 僕も子どもの頃、曳き初めとか何やら行きました。
 浴衣を着て、祇園祭なんて、もう何年も行ってないです。
僕が浴衣を着ると、どうも書生風になるらしく病人ぽいと言われます。。。
 もう少し貫禄つけて、祭に繰り出して行きたいですね。

 今日は朝から龍大付属平安高校に行ってきました。
 もちろん仕事でです。今年から名前が変わって、正直どうなるか期待していました。入試の結果としても、やはりレベルは上がってきているようです。今年の入試もレベルが上がると思います。龍大の付属という意味もあるでしょうが、先生方の熱心さが、レベルの上昇理由だと思います。また、龍谷に行くかどうかは別として、他大学の進学を視野に入れて行くのも良いと思います。

 昼ごはんを食べずに、今日はそのまま塾に来ました。
 うちの近所で、ランチタイムを過ぎるとなかなか難しいものがあります。
 そこで、久しぶりに「てしま」に行ってきました。


 ここは、昔ながらの定食屋さんです。
 場所は少しわかりにくいところにありますが、そこが穴場っぽくて僕は好きです。近所の方がよく利用されていますが、学生さんからお年寄りまで、わりと幅広い客層です。お値段も手ごろです。日替わり定食は550円です。

 僕は今日ハンバーグ定食(800円)をいただきましたが、前にこんなメニューあったでしょうか。。。聞こうと思いましたが、そんなこと忘れてのんびりしてしまいました。食べ終わったら、今日はちょっとしたサービスもあって嬉しかったです。


 このお店は、昭和の初期からあるようで、店内にはってある写真は年代ものです(たしか下鴨が洪水になった写真でしたでしょうか)。昔はここら付近が「下鴨京極」と呼ばれているほどの賑わいだったそうですが、僕はあまりそのことについてはよく知りません。誰か教えてほしいくらいです。
 ただ、近くに「二本松」の道標が残っていますが、これが昔の名残でしょうか。たしか、下鴨の南北の通りは「中通」「本通」「東通」「西通」とありますが、下鴨中通が最も古いです。道標もこの中通にあります。


 下鴨で仕事を創めて、もう5年目になりますが、下鴨の歴史についてあまり知りません。今年はちょっと下鴨の歴史について調べてみようかな。。。

 今日は5月15日、そうです、京都は葵祭です。
京都三大祭の一つです。葵祭の由来などは、いろいろな方が書かれているので、ここでは割愛します。


 そこで、今日生徒に聞かれた質問を一つ。。。


「先生、葵祭に出るんて、どうしたらいいん?」


 この答え、非常に難しかったんです。
いや、参加する方法はだいたいわかります。でも、ここで言っていいのかというところで迷いました。でも、言ってしまいました。。。


 葵祭には、氏子のようなかたちで毎年参加されている方も大勢います。
また、馬に乗るために特別に呼ばれている方々もいらっしゃいます。警察の方々もこれに含まれると思います。もちろん、地域的なことで参加されていることもあります。
 でも、そんなことがなくても参加できる方法もあるのです。

 

 それは、、、

 

 アルバイト!!

 


 まぁ、もったいぶるほどではないですね。
 今や、京都市内の大きな祭に、アルバイトは欠かせません。

 ちなみに葵祭に関していえば、いくつかの大学限定でアルバイトを募集されています。僕が大学生の時は、京大だけだったか、それ以外にもいくつかだけしかなかったような気がします。
 聞くところによると、、、現在では、
 京都大学、京都工芸繊維大学、京都府立大学、同志社大学、立命館大学、龍谷大学、京都産業大学、大谷大学で募集しているようです。これは僕が確認しただけなので、もしかすると、もう少し多いかもしれません。

 それと、これは基本的に、男子学生のみの募集です。
 女子に関しては、ここ数年、葵祭での女子学生の募集は聞いたことがないです。でも女子は学生がいないかというと、そうでもないのです。どうやら、つて、こねなどでの募集で埋まってしまうことが多いようです。最近はどうなのでしょうか。。。


 僕自身、今宮神社のやすらい祭に参加したことはありますが、装束を身にまとうだけでも、得した気分です。でも、こういったアルバイトは、だいたい日給数千円なので、大学生にはあまり好まれないようです。


 あと、葵祭への参加というと「鴨川ホルモー」を思い出します。

 この話は、葵祭での出会いから始まります。

 これは映画化されるのですが、実はもう撮影が始まっているようです。
ほとんどは京都市内でのロケで、エキストラなども募集されていましたね。
 これは京都の大学はもちろん、いろいろな企業なども積極的に参加されていて、産学連携の色もあるのです。


 だんだん、葵祭から、離れていきました。。。

 うちの塾の前を通ってもらえただけでも何だか光栄です。

 京都も葵祭が終わると、少しずつ暑くなっていきますね。
 

 昨日は夜遅く塾から帰ってきたものですから、ゆっくり部屋で夜中にごはんを食べていました。本当はビデオに撮って、あとでゆっくり観ようと思っていたのですが、ごはんを食べながら観てしまうことになりました。


 この『長州ファイブ』という映画は、大筋のところで実話なのです。

 幕末の長州藩(萩藩、現在の山口県)の若者たち5人が、イギリスに密航し、その後近代日本を大きく動かしていくことになるという話です。

 その5人というのは、、、


 山尾庸三、井上勝、井上馨、伊藤博文、遠藤謹助 です。

 
 山尾は、造船技術などを学び、日本に帰ってのち工部大学校というものを作り、日本工学の父といわれています。これは後に東大工学部に引き継がれていきます。
 井上勝は、日本に鉄道を始めて走らせた人物で、東京駅に銅像が建っています。意外と知られていないですね。
 井上馨は、初代外務大臣で、日本の欧化政策のリーダーです。鹿鳴館を作ったのも有名です。
 伊藤は、後の初代内閣総理大臣で、木戸亡きあと長州閥の重要人物となります。


 この5人のうち、井上馨と伊藤は下関砲撃事件を聞きつけ、日本に急遽帰国することになります。しかし、その二人が政治家としての道を歩み、あとの三人が、技術畑として日本を支えていくというのも歴史の流れというものでしょうか。

 

 彼らが密航したのは1863年(文久三年)で、この年京都では新選組が誕生した年です。時代は徐々に近代化へと進み始めた時だったのです。
 長州ファイブの5人は、密航当時全員20代で、一番若かった井上勝はまだ二十歳でした。彼らがイギリスの地で、どれだけの苦労をしたかを想像する時、まだまだ自分のが甘いことを思い知らされます。


 現在、ロンドン大学に「Choshu Five」という名の顕彰碑が建てられているようです。また、最近ですが、日本にも山尾の生家跡に顕彰碑が建てられました。彼らの功績は後の日本を大きく動かしましたが、日本が本当の意味での文明国となったかは、疑問が残ります。


 最後に、、、
 圭修ファイブは、関係あるのでしょうか。。。
 っていうても、知っているのは僕ら世代だけかな。。。
 僕は「4時です」派でしたが。。。

 今日はちょっと早起きできました☆
 「京のにちじょうさはん ごこう」のもちやさまに、早く行くことを勧めていただきましたが、何とか開館時間に行くことで精一杯でした。それでもやはり30分待ちで、少し外を並びました。

 展示のほうはというと、
 予想通り、人は多いのですが、見にくくてしょうがないというほどではありませんでした。僕のお目当ては、「洛外名所遊楽図屏風」と「唐獅子図屏風」です。洛中洛外図もゆっくり見られるのならと思いましたが、やはりここが一番人気だったようです。
 

 「洛外名所遊楽図屏風」は2年前に京都で新たに発見されたもので、もちろん現物は初めてでした。嵐山のほうはすぐにわかりましたが、宇治のほうはぱっと見で正直どこのことかわかりませんでした。平等院はとても鮮やかで、きれいでしたね。新聞でみたところ、この「洛外名所遊楽図屏風」は博物館での企画が決定したあとに発見されたということだそうです。とてもラッキーなことです。

 「唐獅子図屏風」は教科書などにも載っている有名なものですが、初めて観ました。まずはやはりその大きさに圧倒されます。知っていても圧倒される、その迫力はさすがです。一見、かわいらしささえも感じる獅子は、その表情や動きに深みがあります。もう一度観てみたいと思いました。

 洛中洛外図は、何度も観たことがありますが、やはり全体をみるととても豪華で、しかも繊細です。上杉謙信が喜んだのもわかります。もう少し観ている人が少なかったら、細部までゆっくり観たかったです。


 狩野永徳は若い頃からその才能を認められていましたが、それに応えるだけの作品を残しています。欲をいえば、大坂城や安土城、聚楽第などの障壁画が残っていれば、どれだけすばらしい作品だったかと思いますが、今となってはそれを知ることすらできません。
 彼は40代でその生涯を終えています。過労死とも言われていますがどうでしょうか。
 僕もそれくらい仕事に没頭しようと思った一日でした。。。


 先日のことですが、京都国立博物館に狩野永徳を観に行こうと思っていたのです。金曜日の朝ということもあり、まぁクルマで行っても大丈夫だろうと思っていました。

 ところが、、、
 10時の段階で駐車場は満車、入場も50分待ちということで、この日はあきらめました。。。

 そこでこのまま帰るのもシャクだということで、ちょっと足を伸ばして光悦寺に行ってきたのです。僕もここへ来るのは久しぶりでした。大学から近かったので、学生時代は何度も行きましたが、今思えばやはり交通の便の悪いところです。

 今年は暖かいせいで、京都の紅葉も遅れているようです。
 でも、さすがに少し北に上がれば紅葉も観ることができました。
 珍しく写メを載せておきます。。。(連れの希望により)


 光悦寺は、その名の通り本阿弥光悦にゆかりのあるお寺です。
 本阿弥光悦は、刀剣鑑定士の家に生まれ、書、絵画、陶芸、何でもこなす芸術家でした。中でも書は、独特な書風でとても有名です。僕は個人的に、俵屋宗達の下絵に書いた『鶴下絵三十六歌仙和歌巻』が圧巻だと思います。書がアートであることをとても感じさせてくれるものです。
 こんな風に、光悦は自身が作品を作る一方、いろいろな芸術家たちのプロデュサーとして、今にその作品が残ります。

 光悦は60歳を前にして、この鷹峰に徳川家康から所領を与えられ、このあたり一体に芸術村を築きました。光悦が鷹峰に来たこの頃、茶の湯の師匠である古田織部が切腹させられていることから、洛外追放との見方もありますが。。。
 どちらにせよ、多方面の芸術に影響を与えました。特に琳派が大成する一つのきっかけを作ったといえます。尾形光琳は光悦の親戚でもあり、光琳の祖父は芸術村出身だったのです。もちろん上記の通り、宗達との共同制作は数も多いのです。

 
 話しがそれましたが、、、

 光悦寺は、そんなゆかりのあるお寺です。
 そういえばもう一つ、こないだ「バガボンド」を読んでいたら、ちゃんと光悦も出てきました。武蔵と光悦は親交が厚く、吉岡一門との決闘の前にも光悦を訪ねたといわれています。マンガでは、その場に小次郎もいることになっていますが。。。

 
 本来の目的である狩野永徳は、水曜日の午前中に行こうと思っています。
 その様子はまた報告しますね。

 今年は平日でしたし、用事がいろいろあって見に行くつもりはありませんでした。たまたま、四条に行く用事ができて、その前を通ったのです。しかも今年話題の室町時代列を観ることができました。

 室町時代列は、いろいろなところに書かれているとおり、今年初めてのことです。そもそもなぜ今まで室町時代は時代祭になかったのか。
 
 室町幕府を開いた足利尊氏(高氏)は、後醍醐天皇と対立し、後醍醐天皇は京都を離れ、吉野で南朝を開いたのです。これが長い長い南北朝時代の始まりです。尊氏は後醍醐天皇を京都から追放したようなかたちになり、今でも「逆賊」扱いされています。

 平安神宮の九條道弘宮司が「時代祭は祭神の桓武天皇と孝明天皇に、今の京都をご覧いただくのが本旨で、行列は両天皇のお供。お供に足利氏がいるのはおかしい」(京都新聞・平成19年10月22日)とおっしゃるとおり、時代祭で列を成すのはいろいろとあったのです。
 けれど、九條宮司は「各時代の風俗を展覧するという意味では、室町行列があって不思議ではない」ともおっしゃって実現した背景もあります。

 
 で、、、
 実際、室町時代列はどうだったかというと、、、

 「室町幕府執政列」は、とても綺麗な衣装で、個人的な感想としては、室町時代列は以後も必要であると思いました。そもそも、室町時代を抜きにして、京都を語るということ自体やはり無理があったように思っていたので。いろいろあるのもわかりますが、これでやっと一つのカタチができたように思います。これからのことはまた考えれば良いと思います。

 あと、室町時代列には「室町洛中風俗列」というのもありました。
いわゆる室町時代の「風流踊り」の再現です。聞くところによると、滋賀県草津市の祭りをベースに時代考証されたとか。また、狂言の茂山さんが指導したという話しも聞いています。
 こちらも見た目が綺麗で、時代祭には今までなかった雰囲気で良かったと思います。

 
 こうやって見てみると、やはり歴史認識をこういった祭りや儀式に反映させることは難しいと思いました。時代祭はほかにも幕末志士列など検討していただきたいものがいくつかあります。


 もう一つ思い出したんですが、、、
うちの実家の近くにJRの新駅ができます。大阪府三島郡島本町というところですが、楠公さんのゆかりのある場所で、駅名の公募で「楠公」「桜井」(楠公さんゆかりの地名)「くすのき」などの応募が多かったようです。
 結果的に「島本駅」で決定しましたが、南朝贔屓というのは関西特有のものでしょうか。。。僕自身もわりと楠公さん好きなんで、何ともいえませんが、足利さんにも配慮してあげたいです。

 1867年10月14日
 徳川慶喜は京都二条城において、大政奉還を行いました。

 歴史の教科書にもあるように、これにより260年続いた江戸時代が終わり、鎌倉幕府以来680年以上にわたる武家政権が終わったのです。

 大政奉還を簡単に説明すると、、、
 徳川家というのは天皇から征夷大将軍という位を与えられて、政治を預かっているという状態であると考えられていたのです。その政治権力を天皇に返上するというものです。
 歴史に詳しい人ならご存知かもしれないですが、こういった背景には、薩摩藩や長州藩による武力倒幕の計画があったため、徳川慶喜が先手を打ったと考えるのが妥当なようです。薩長にはすでに倒幕の密勅と呼ばれる、幕府を倒す天皇の命令書(もちろん勝手に作ったもの)を作成していたので、これを盾に武力倒幕を考えていたようです。

 ちなみに一般的には、この大政奉還で徳川慶喜は引退したとか、征夷大将軍を返還したように思われていますが、全く違います。
 やはり大政奉還は政治的な戦略であって、徳川慶喜は徳川家を中心とした政治を目論んでいたようですし、征夷大将軍の位は大政奉還の後に、王政復古クーデターの前後で返上したものなのです。

 また、徳川慶喜に大政奉還を進言したのは、土佐藩の山内容堂です。山内容堂は家老である後藤象二郎の言葉を受け入れたと言われています。そしてその後藤に進言したと言われているのが、坂本龍馬です。大政奉還の当日、坂本龍馬は二条城の門前近くで、後藤の報告を待っていたとも言われ、もしかすると本当に坂本龍馬の発案だったのかもしれません。

 坂本龍馬が、大政奉還した徳川慶喜に対して一言。

 「大樹公、今日の心中さこそと察し奉る。よくも断じ給へるものかな、よくも断じ給へるものかな。予、誓ってこの公のために一命を捨てん」

 大政奉還はそれほどまでに大変なことであったのです。
 坂本龍馬は大政奉還の一ヵ月後、四条河原町近江屋にて暗殺されます。

 まあ、なんてことはないですが、そんな歴史に一ページに思いを馳せるのもいいかと思います。
 

 あ、旧暦がどうとかもありますが、それはまたその時に。。。
 新暦では11月10日が一般的に考えられています。。。あしからず。


 今日は8月25日、いよいよ夏休みも佳境入って、みんな宿題に追われている頃です。地蔵盆なども一段落ついたようで、後片付けしてる様子を近所で見ることができます。
 毎月25日といえば天神さんですが、ここ吉祥院では今日六斎念仏が行われます。国の重要無形民族文化財にも指定されています。

 そもそもここ吉祥院天満宮に行かれた方は意外に少ないのではないでしょうか。「吉祥院」という地名の由来にもなっているお宮さんでありながら、どうもマイナーなような気がします。

 吉祥院天満宮は、菅原道真の祖父菅原清公が遣唐使として入唐する際、吉祥天女によって命を救われたということから、この地にお堂を建てたことに由来するようです。その後、清公の子菅原是善がここに吉祥院というお寺を創建しました。
 境内には、胞衣塚(えなづか)と呼ばれる菅原道真のへその緒が納められたとされるところもあります。


 六斎念仏とは、平安時代空也上人の踊り念仏が起源です。
京都では六斎念仏がいたるところで行われていますが、ここ吉祥院六斎念仏もまたその一つと思われます。でも、ここらの由来は僕もよくわかりません。一説には明智光秀の残党を弔ったことが始まりだとか。。。
 ただ、ここの六斎念仏は、時期が時期ということもあり、子どもが主役でいろいろなイベントが行われています。
 正直僕は、久しく行ってないのですが、夜店なども出ていたと思います。


 昔、大学の時の友達が吉祥院に住んでいて、うちのクラブの後輩たちも吉祥院には必ず連れて来られ(?)ていました。後輩たちはそれを「洗礼」なんて呼んでいましたが、吉祥院をいろいろ連れ回されていたようです。僕もそのおかげで今でもこのあたりは土地勘があります。

 明日は夏休みの総括もあって、うちの塾では講師研修を行います。
 やり切れていないことがたくさんあって、ブログ書いている場合ではないのですが、今日一日も頑張ろうと思います。
 明日は朝早く起きれたら、プチ・メック2号店に行こうと思ってます。 

 今日日本史の授業で、鎌倉幕府の四代将軍の話をしておりました。

 鎌倉幕府は、源頼朝が初代将軍であることは誰もが知っておられることかと思います。二代目は頼朝の子頼家が継ぎ、三代目は実朝が継ぎました。実朝は百人一首にも載っている(鎌倉右大臣)人物です。
 ここで源氏の将軍が絶えてしまい、またその後北条氏の執権政治が始まるので、中学歴史のレベルではここで終わりです。

 高校日本史のレベルでは、この後四代目の将軍も必須です。
 四代目は、頼朝の少し遠い親戚(姪の孫)にあたる、九条頼経が継ぎました。後に、頼経と二代将軍頼家の娘との間に頼嗣という男子が生まれ、彼が五代将軍になりました。
 六代目は、後嵯峨天皇の子宗尊親王が継ぎ、九代守邦親王まで皇族の将軍が継ぐことになりました。。。

 たくさん一気に書きましたが、鎌倉幕府の将軍というのは、源氏の将軍と九条家(摂関家)の将軍、そして皇族の将軍という変則的な構造だったのです。
 なぜ、北条氏が執権という位のまま、政治をとっていったかはという問題もありますが、ここではやめておきましょう(長くなりますね)。
 あ、あえていうならば、北条氏が朝廷から、どうあっても征夷大将軍を任命されなかったからだと思われます。理由はいろいろあると思います。

 鎌倉時代は、まだまだ武家と公家との境がはっきりせず、中央よりも地方の政治や社会構造が劇的に変化した時代です。
 現代も中央に何もかもを頼るのではなく、小さなところから何か大きなうねりを作り出すことができそうな気もします。

 お盆ですが、今日は一人でうちの地元高槻を散策していました。
 といっても夕方から出かけたので、たいしてどこも行けませんでしたが。。。
 
 ちゃんと行ったのは「高槻市立しろあと歴史館」というところでした。
 うちの地元、大阪府高槻市は、江戸時代3万7千石の高槻藩だったんです。明治時代に電車を走らせることで、城はほとんど解体され、昭和の戦争の時に陸軍工兵隊の練兵場であったために、空襲を受けました。
 現在は、練兵場のあとはほとんどなく、高槻市民でも知らない人が多いと思います。

 今日はどうしても「その日」なので、こうした話になってしまいそうですが、あえて京都の話にもっていきます。

 しろあと歴史館は、高槻城の歴史と、高槻藩の歴史について展示しています。決して広くないところですが、基本的に無料で閲覧できることは良いことだと思います。

 ここで今日僕が始めて知ったことがありました。

 幕末の漢詩人、藤井竹外がなんと高槻藩出身であったことです。
 一般的には藤井竹外はあまり知られていない人ですが、歴史の教科書で名高い大塩平八郎が、高槻藩の藩校で教えていた時の弟子の一人です。のちに、京都に住み、今でも邸宅跡は同志社大学の裏手あたりに碑などが建っています。 
 僕は京都に住んでいた藤井竹外は知っていたのですが、まさか地元高槻藩出身だとは知りませんでした。
 彼は、大塩の乱の後、酒びたりになって、京都に隠居したと言われています。。。

 僕と同じように、高槻から京都にやってきたというのは個人敵にとても興味があります。
 時代は違いますが、何だか藤井竹外が身近に感じられました。

 

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京都市左京区の学習塾
京都寺子屋塾の塾長です。
大阪出身で、現在は上京区民です。
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